教育学, 社会学, 経済学

Column13 教育と経済

今年から実施されるようになった給付型奨学金。

返済不要の奨学金ということで、1943年の奨学制度開始からおよそ75年の年月を経て、

本来の意味としての「奨学金」が実現したことになります。

(奨学金:Wikipedia

それでも学費が永年基本無料であるヨーロッパの諸大学に比べれば、やはり100年近い文明差(時差)があるのは相変わらずで、教育が民間化して以来その知的レベルは歴然としています。

 

よく、フィンランドは教育を、日本は金融を重視した戦後復興を選んだと言われています。

実際1970年代、田中角栄内閣始まって以来日本は公共需要の名の下に「国民教育」や民間需要を犠牲にしてきた歴史があります。

これはランチェスター戦略に当てはめれば完全に「数」の戦略を取った背景があります。

質より量でなんとかしろ・・・これはまるで文明の逆行です。

 

確かに、この戦略は「金」を中心とした社会を考えた時に最も効率的な社会主義です。

そして思惑通りまんべんなく国民全員の資本が1人あたり1億以上になれば成功ですが、実態はそうもいかなかったわけで、それはバブル崩壊とともに立証されました。

むしろ結果から考えると貧富の差を広げただけでした。

 

つまり60年に渡る金融立国作戦の失敗です。

(いや、厳密にはその60年でごく少数の人物だけは死ぬほど潤ったわけですが)

 

結局、お金がいくらあっても使う人間の知的体力次第といったところは何も変わらないわけで、いくら紙をばらまいても1人1人の人間力や倫理観をブラッシュアップしておかないとこれまでの日本人みたいなエコノミックモンキーに成り下がるだけです。

品性もなくただ金のために殴り合いや殺し合いに明け暮れている人種・・・・それが現在の実際の日本人像なわけですから。

海外で暮らしたことのある日本人達から見れば滑稽な国に住んでいたなと思わざるを得ません。

(海外に渡った友人や親せきたちは移住後、もう不幸になりたくないと言って一人も帰ってきませんでした)

 

奨学金を返還不要の投資型にしたのは1つの大きな転換点かもしれません。

それは謂わば1世紀前のヨーロッパのような方針転換です。

しかし、「金があれば」という貧困層の思想は相変わらず抜けきれず、どうしても日本人というのは「貧しさ」がお好きらしいです。滑稽です。

 

本来豊かさというのは箴言にもある通り「知」なのであり、「金」ではありません。

「金」を崇拝して崩壊した文明は数知れません。

日本もまた例外ではないでしょう。

 

極論、奨学金にせよただの金貸しでもよかったわけで、往々にして金の問題とは表面的な問題で、いつの世も金は金だけではどうにもならない。

要するにこの問題の本質は「未だに日本に教育プログラムがないこと」です。

日本に教育があったのは1970年頃までの話で、それ以降の50年間というもの、教育というのは名ばかりの文科省主導の国民洗脳プログラムでしかなかったわけです(だから美術や音楽などは義務教育からなくそうなどと妄言が始まるわけです。メディアのネタにはなるかもしれませんが、しかし政治でそれは滑稽ですね)。

そのおかげで今、教育を担えるレベルの人材は我先にと次々に海外に流出しているわけで、優秀な人材の流出に歯止めがかからないのは工業やITだけではありません。

教育もです。

 

もし金を崇拝するならば金を生み出せるスキルフルな人材を生み出すのが先です。

しかし今のやり方では、まるで放って置いたらたまたま運よく自然と育った肥沃な土地から順に刈り取っては火をかける焼き畑農業と同じです。

彼らはそれも肥料になればとでも思っているのかわかりませんが、某R社はじめ、国ぐるみで焼く(=人材の使い捨て)スピードが速く、作物の生産が追い付いていないからこの状況なんでしょう。

結局、工場機械の下働きみたいな「機械モドキ」を大規模にいくら育てても、AIに取って変わられるだけで、決められたことを決められた通りにやるのでは産業は育たないとオジサンたちが気付かない限り日本が質的に再生することはないということです。

人間はむしろ決まっていないことや自然の変化にしなやかに受け止めて加工する知恵が「命」ですから。

 

金、金、金。

作り物のために国民全員で命をささげて、ありもしない妄想のために人生をその日本という焼き畑農場の「灰」に変えてきた国日本。

 

それも独立行政法人などの外郭団体にばらまけばいいじゃないかと知っている顔の範囲でしか物事を見れないオジサンたちに国を任せた日本国民の「ツケ」なのかもしれませんね。

 

今生きている日本人が考えねばならないことは

次世代に灰の山となったその膨大な「ツケ」を残さないことなのではないでしょうか。

そして次の世代が考えなければならないのはその「ツケ」をどうこうすることではなく、まったく白紙に返したときに何を描きたいか、ということなのではないでしょうか。

 

少なくとも日本という国は、戦後2度目の敗戦を喫していますから、まだ復興さえされていないと考えてまず間違いありません。見た目だけはどうも水と砂の合成物でハリボテに仕上げましたが、内在的にはむしろ衰退の50年を体験しているのです。

 

紫山

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